投稿日:2021年7月6日  更新日:

「いい写真」とは何か?

「いい写真とは何か」という問いは写真が趣味になってから頭の片隅に常にあり、時々考えたり調べてみるも、答えは出ない難問でした。

最近はSNSを始めとして写真を簡単に共有したり見たりできる世の中。数多くの写真が人の目に触れては流れていきます。写真が消費されているとも言えるような世の中だからこそ、「いい写真とは何か」について考えたいと思います。

いい写真とは何か?

写真に目的を求めるか否かが初めの分岐点。例えばフォトコンで優勝したいとか、SNSで多くのイイねが欲しいとか、明確な目的がある場合はその目的を達成できる写真こそがいい写真だと思う。

でも、大抵の場合はそうではなくて、漠然と「いい写真」って何だろうと考えることが多いですよね。

一般的な「いい写真」って何だろうか?この問いに答えはあるのか?考えてもわからないのではないか・・・考えるたびに思考を投げ出したくなるのですが、今回はそこから少し考察をすすめて、いい写真という漠然とした問いの輪郭を捉えていきたい。

いい写真に客観的な尺度は存在するか?

いい写真に限らず、何かを客観的に判断するには基準が必要になる。

例えば、テストには点数付くが、写真には点数をつけることができない。なぜなら基準がないから。数学には正解・不正解があるが、写真に正解・不正解はない。数学には定理があるが、写真は自由だ。

例えば、至高の作品だと胸を張ってみても、他者からは評価されないということが写真ではよくある。

写真を審査するフォトコンテストであっても、審査員の主観で判断されており、客観的な尺度にはならない。SNSのイイねの数も写真自体を評価したものなのか、撮影努力や撮影者本人への愛情を加味した評価なのか判断できない。そもそもイイねの数はフォロワーの数やファンの数に左右されるので写真を客観的に評価する尺度には利用できない。

いい写真の基準になりうる「客観的な尺度」というものはないのだろう。そして、客観的に判断する尺度や基準を設定できない以上、いい写真かどうかを判断することが非常に困難である。

いい写真の「良い」は程度が共通でない

さらに言えば、いい写真を考える上で、改めて「良い」とはどういうことなのかという問題もある。

それなりにいい、すごくいい、まあまあいい、最高にいい・・・「良い」と一口に言っても、いいの程度は様々だ。

いい写真を評価するための客観的な尺度はないのだから、主観的にいい写真を定義しようと試みた場合、良いという程度がそもそも明確ではないので、いい写真を明確にすることが一層難しい。

いい写真というのはものすごく幅が広いのかもしれないし、ごく一部の写真を指すのかもしれない。ますますいい写真とは何かわからなくなってくる。

いい写真とは何かを考えようとするのは何故か?

考えようとすればするほど難しい「いい写真」について、そもそもなぜ「いい写真」とは何かを考えようとするのだろうか?

私の場合、理由はシンプル。自分の「いい」と他人が思う「いい」が一致しないから。

SNSや写真集、またはフォトコンで目にする写真がいい写真だと思わないことが多々ある。客観的に「いい写真」だと判断することは困難だと説明したものの、フォトコンで入選しているとか、SNSでたくさんのイイねされている写真が「一定数」評価されているのは事実。

しかし、そんな風に一定数評価されている写真をいいと思わなかった場合、自分の写真に対するセンスや審美眼が「狂っている」のではないかと不安になる(ことがある)。不安と言わずとも、自信がなくなる。もし仮に、その通り写真を鑑賞するセンスが欠如しているとして、それはイコール写真を正しく判断する能力がないわけなので、言い換えればいい写真を撮ることができない可能性を示唆する。

これは現代の写真に限ったことではなくて、写真の巨匠と言われるような人の作品を見ると一層思ったりもする(時代背景も多分に影響しているが)。

何らかの形で評価されている写真を見たときの、他者の評価と自分の評価が必ずしも一致していないからこそ、いい写真とは何かが気になるし、考えようとする。もし、自分が思ういい写真と他者が選ぶいい写真の範疇がほぼ重なっていれば、おそらく「いい写真とは何か」なんて小難しいことは考えなかったはず。

でも現実はそうではなく、自分はいいとは思わないが評価を受けている写真によく出会すもの。そんな時、判断材料が欲しいのだと思う。だからこそ一般にいい写真とはどのように定義されているのか探ろうとする。

しかし、調べてみても考えてみても、いい写真を評価するための客観的な尺度は見出せないし、いい写真とは何なのか一層分からなくなってしまう。

いい写真だと思う理由を本当に理解しているか?

自分自身が撮ったお気に入りの写真を見返して、何故いい写真だと感じたのか考えてみても、それを明文化することは簡単ではない。

写真を構成する様々な要素、例えば撮影したシチュエーション、撮影対象の質感、趣、色のバランス、シャッターチャンス、構図などを個々に評価しているわけではなく、一目見ていい写真かどうかを総合的に判断しているように思う。

では何故、その写真がいいと思ったのか。

それは果たして言語化することはできるのだろうか?

例えば、絶景だからという理由でいいと思った写真があって、他に絶景を撮っているがいいと思わない写真もたくさんある。被写体の特性をよく捉えているとか、ベストな時間帯に撮影をしているとか、いい写真に共通しそうな要素はたくさんあれど、どの要素がどういった方程式でいい写真という答えに結びついているのか、言語化することは難しい。

いいと思ったからだ、としか言いようがないではないか。

「いい」というのは概念であって、その理由を言語化したり一般化するのは不可能なんだろう。いい写真とは何かを考えるうちにそう思うようになった。だって、いい写真を客観的に評価する尺度はないわけだから。いいと思った写真の理由を明文化することは困難なのだから。

言い換えれば、「いい写真とは何か」という輪郭を捉えようとすればするほど、「いい」という言葉の曖昧さを受け止めるキャパシティが必要だということ。

いい写真だと感じる心の中を覗くことが難しい以上、それを一般化することはできない。写真に限った話ではなくて、人を好きになるとか嫌いになるとか、理由を言葉にすることができない事象はたくさんある。

うまく言葉にはできないが、私がいいと思った写真がいい写真であって、それ以上でもそれ以下でもない。私がいいと思った写真は私がいいと思ったからいいのだ、他者が撮った写真はその人がいいと思ったのであって、その評価が私と一致するかは偶然でしかない。

言葉遊びのようになってしまっているけれど、それ以外言いようがないのではないか?

いい写真は自分との対話以外で生まれ得ない

ここまで考えてみて改めて思うのは、いい写真という評価は自分の心から湧き出る「心理的で捉えようのない何か」だということ。

言語化したり一般化することは不可能で、いい写真というものを一様に定義することはできないという結論が導かれる(元も子もないのではなく、定義することは不可能なんだという結論が得られたということ)。

いい写真とは自分自身の心から溢れ出る気持ちであり、その感情を探り出すには自分自身と対話するしか方法がないということだと思う。

自分自身と対話するというのは簡単なようで難しく、とてもしんどい作業だったりする。だから、私たちは「いい写真とは何か」を外部の情報に求めるのかもしれない。いい写真を誰かが定義してくれたら楽なのに・・・いい写真とは何かを写真の大家が教えてくれたら楽なのに・・・と。

しかし皮肉なことに、いい写真だと感じるのは私自身の心であって、私以外の全員(他人)は一切関係がないので、いい写真が何かは教えてくれないし、教えることはできない。技術的にきれいな写真を撮る方法を教えることはできても、それはいい写真であるかどうかには関係がない。多くの人が感じているように、きれいな写真がイコールいい写真ではない。例えばフォトストックサービス(PixabayとかAdobeStockとか)にある写真はみんなきれいだけれど、これらの写真が「いい写真」だと感じる人は少ないのではないか。

いい写真の定義を他人に求めてみても、答えは返ってこない。自分自身と対話するしかない。

いい写真を定義できる基準はなくて、それは自分自身がいいと思えるか、その気持ちと向き合えるか、という自分自身と対話する以外に決着をつけることができない・・・というのが私の結論です。

いい写真を認識した、その先へ

ところで、いい写真を認識して、いい写真を撮影できたとして、その先には何があるだろう?

趣味としての写真であれば、撮る行為が楽しい、それを所有してコレクションすることが楽しい・・・それで十分だろうか。

「いい写真」が撮れたとして、その先にSNSやフォトコンテストがあって、そこで他者から評価を得られなかった場合、それはいい写真ではないのだろうか?

それは果たして落ち込むべき事象なのだろうか?

私としては、そんな必要は皆無だと思う。自分自身がいいと思えていれば何も気にする必要はないと思う。写真には確かに上手いとか下手とか技術に関する尺度はあるけれど、上手いからいい写真だと評価されるわけではない。それは誰だって気付いていることだったりする。

他人の評価を気にしなければ写真が上達しないという意見が聞こえてきそうだが、そもそも何のために上達したいのか。冒頭で述べたように、フォトコンテストで入賞することが目的なのであれば、フォトコンテストに入賞しそうな写真を狙って撮る必要が(明らかに)あるし、他人の評価を気にする必要は確かにある。

でも、そうでない場合がほとんどではないだろうか?何のために写真を撮っているかと言えば、楽しいからであり、趣味だからであり、趣味とはつまり人生を豊かにしたいと思って従事しているわけなので、自分がいいと思える写真を突き詰めた方が幸せなのではなかろうか。

そうしていつしか、個性が醸造されて、その個性を他者が自然と評価してくれる方が楽しいのではないかと思う。

自分がいいと思った写真が外部で「評価」されなかったとして、それは単に、その写真を見た人にとってはいい写真ではなかったというだけの話だと思う。

冒頭で述べたように、いい写真の捉え方は人により異なるので、いい写真の目的が他者からの評価や世間的な認知にあるのであれば、他者から評価されない写真はいい写真にはなり得ないが、 写真活動を人生の探究(趣味)と捉えるのであれば、その人にとっていい写真が撮れた時点で、その写真活動の目的を明らかに達成している。

つまり、自分がいいと思えたのだから、それで十分なのだ。それ以上の意味を写真に見出すかどうかは人によるが、それ以上の意味が必ずしもいい写真であることとイコールではない。自分がいい写真だと思えた時点で、いい写真であることは確定しているのだから。

いい写真について考えると、他者の写真の見方が変わる

こうして考えを巡らせると、SNSなどで見かける写真への視点も変わる。

よく巻き起こる「レタッチの是非」などは全くもって不毛な議論であるとわかる。その人がいいと思ってレタッチしたに過ぎないわけだ。他人が口を挟むべき次元のことではない。その人は自分自身の写真をいい写真にしたくてレタッチしたのであって、あなたのためにレタッチしたのではない。

他人の写真に口をつい出してしまうというのは、いい写真とは何かの対話を自分自身と済ませていないということに他ならない。

いい写真とは何かを真剣に考えたことがあれば、求められてもいないのに他人の写真にお節介な口出しなどできないものだと思う。そもそもそんな行為は野蛮で下品だ。料理教室に例えてみよう。同じ教室にいる人が一生懸命作った料理を勝手に食べて、求められてもいないのに「まずい。味が濃い。もっと薄くした方がいい。」と感想を口に出すことは想像しただけでヤバイ奴だ。

その人はなぜいい写真だと思ったのだろうか、もしその写真を撮ったのが自分であればいい写真だと思っただろうか、そんな視点で写真を見ることができるかもしれない。

いい写真を撮るには?

翻って、いい写真を撮るにはどうしたらいいのだろうか?

写真を鑑賞することと写真を撮影することは、実は似て非なるものであって、異なる次元のことな気がしている。写真を見るのは受動的、写真を撮るのは能動的。

映画を見てつまらないと感想を垂れるのは簡単だが、面白いストーリーを作れるわけではない。いざ自分がクリエイティブの主人公になったとき、これまでとは違う世界に迷い込んだのかと錯覚する。感想を述べるのと自分自身で創り出すことの難易度は根本的に異なる。

それでは、いい写真を撮るためにはどうしたらいいのだろうか?いい写真とは自分の心がいいと感じる写真なのだから、そのような気持ちになれる環境で写真を撮ることが重要だと思う。

いい写真が生まれやすい環境とは?

いい写真とは、自分との対話によりいい写真だと思える状態に到達していること。

上述の通り、それは撮影する環境により異なるのではないかと思う。撮影の対象を限定することでも起こりうるし、撮影の難易度上げても起こりうる。例えば私はポートレートに興味はないが、アフリカやオーストラリアの原住民族の写真を撮ることができば、あとで振り返った時に無条件でいい写真だと思うだろう。

それはひとえに、そんな写真を手中にできたという達成感がそう思わせるのであって、それがポートレート的によく撮れているかどうかは関係ない。写真と絵画やCGの違いは、自分自身が現場に赴き、自身の手でシャッターを切ったのか、そうではなく空想を元にゼロから生み出された創造物なのかの違いであり、つまり、撮影したときの体験や経験が、あとでいい写真だと思えるかどうかに多大に影響するということ。

だからこそ、限りある時間の中で、何を撮るのかというテーマ決めはとても重要なのだと思う。撮影するテーマを探求して突き詰めることは、いい写真を撮ることに直結する。

まとめ

私は自分が撮った山の写真が今ではいい写真だと思っている。ここまで書いたように、それは他者から評価されたわけではなく、私の人生の中で貴重な時間を投じて撮影した思い出の詰まった記録であり、私自身が体験した山の憧憬が写し出されているから。

私が撮っているのはいい写真なのか・・・そんな風に考える時期があり、色々と思索を巡らせた。他者と比べたり、過去の写真家の作品を見たりしたけれど、それらはあまり意味がなかったように今では思う。

いい写真とは何か、それを定義付けることははじめから不可能だったということがわかった(私の中ではそう結論づけた)。

「いい写真とはどんな写真なのか」それは語り得ないものであり、「語り得ないことについては沈黙するしかない」と綴った哲学者ウィトゲンシュタインの思想を都合よく解釈させてもらうことにする(こうして記事に起こしているわけだけれども)。

いい写真とは何だろうと考え、どこかに答えが落ちていないか探したりもしたが、結局いい写真とは、自身との対話の末に、いいと思える(いいと納得できる)写真であるという結論に至った(この記事を読んだ方がそれで納得できるかは微妙なところですが)。

ただ、私としてはそれ以外にはあり得ないと、今では納得しています。

いい写真とは何だろう?そんな呪縛に囚われてしまった方の一助になれば幸いです。


この記事のカテゴリー カメラ・レンズ・三脚

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