
小さなころ、ゲームに夢中になった。虫取りに夢中になった。
小学生や中学生、高校生、そして大学生まで、多くの人にとって熱中することは純粋に「楽しむ行為」であるのに対して、社会人になると、それだけでは事足りず、コスパ(払った費用に対して十分楽しめているか)やタイパ(かけた時間に対して十分楽しめているか)を意識するようになる。
どうせなにかやるなら「Youtubeで動画にしよう」「ブログの記事にしよう」そんな思いが脳裏をめぐる。
それだけならまだいい。「これは動画映えしない」「ブログにしても需要がない」などと考え出すことさえあるかもしれない。
どうせゲームをするなら実況した方がいいか。楽しめるし、お金にもなって一石二鳥。確かにその考え方は間違っていないのだが、行き過ぎには注意が必要だと、私自身、いつも自戒している。
なぜかと言えば、目的が逆になっているから。
「Youtubeで実況するためにゲームをプレイしている」と割り切っているのであれば、それはそれで構わない。それはもう「仕事」なのだから。
一方で、本当はゲームを楽しみたかったはずなのに、Youtubeのライブ配信を成功させることばかりに意識が向かい、ゲームを楽しめなくなってしまっては、本末転倒だと思う。
「どうせ何かをするなら収益化したい」と考えること自体は悪くないが、本来の目的を忘れてしまうと、楽しむ行為だったはずがいつしか仕事になってしまう。
記事のタイトルにある「純粋に楽しめなくなる」理由の一つは、コスパ、タイパ、お金や収益化を意識してしまうあまり、行為そのものを楽しむ気持ちを忘れてしまう、あるいは目的が逆転してしまうことにある。
ただ、これはまあ、気を付ければどうとでもなることであり、本題はここから。
「歳を取ると純粋に楽しむことが難しくなる」理由がもう一つある。こちらの方が深刻で、対処が難しい。それは・・・。
楽しむ以前に、結果を予知してしまうこと。その結果、楽しいかもしれないのに、着手すらしないこと。
映画を観なくなる、本を読まなくなる、ゲームをプレイしなくなる、遠出しなくなる、買い物しなくなる。よしんばしたとしても、あまり楽しめない。または、あまり楽しめないだろうと決めつけて、やはり手をださない。
なぜか?
「これまでの人生経験から概ね結果が予測できてしまう」と、考えることに原因がある。
映画のあらすじを見た。なるほど、おそらく「こんな感じのストーリーなんだろう」と、観ることをしない。遠出先のことを調べた。なるほど、おそらく「こんな感じの場所なんだろう」と、行くことをしない。
歳を取ればとるほど、経験値が蓄積する。当然、似たような体験に遭遇する確率は増す。
「楽しいことがしたい」から、映画を観ようという気になったはず。「最近は楽しみが足りてないから」遠出しようと思ったはず。
それなのに、少し調べた結果、これまでに「観た気がする」「行ったらどんな体験ができるか分かってしまう気がする」ことが、歳を取ると増えてくる。
小学生や中学生だった頃と比べて「得られる楽しさを予測する」精度が格段に上がってしまっている。昔は純粋に楽しめていたのに、今では「本当に楽しいのか?時間をかける価値はあるのか?」と考えてしまう。
また、歳を取るほどに、経験値が増えているので、どうしても作品や体験の楽しさ度合いを「過去と比べてしまう」ようになる。
これまでの経験や知識が「楽しむことを邪魔」する、ないしは「楽しもうとする気持ちすら破壊」すらしてしまう。
子供だった頃は純粋にゲームを楽しんでいたのに。最近はどうだろう。過去作と比べて面白くなかった。本当に時間をかけてまでやる価値があるのか。どうせやるならYoutubeで配信しようか・・・。などと考えてしまう始末である。
遠出についてもそう。日本全国の景色を知っているからこそ、行ったことがない未知の場所だとしても「行く意味あるのか?」「〇〇と似たような感じでしょ?」「遠いわりにちょっとショボそう」と、ついつい、知った気になってしまう。
知った気になるな・・・言うは易し行うは難しである。
損得勘定ではなく、純粋に、ただただ好きなんだ・・・ただの一つでも、そんな「好き」を持っているという人が羨ましい。
既存の概念を忘れる努力をしよう、過去の体験から将来を予測して知った気になっちゃいけない。
ただただ楽しむ・・・子供のころに感じていた、純粋な気持ちを持てなくなる、つまらない大人ではいたくないね。
お気軽にコメントください